17.清涼寺式釈迦如来

嵯峨釈迦堂「清涼寺」のご本尊は三国伝来の釈迦如来と呼ばれています。
釈迦が生母摩耶夫人のいる?利天(とうりてん)へ説法に行っている間、弟子の優填王(うてんおう)は、釈迦の留守を悲しみ釈迦そっくりの像を彫刻家たちに彫らせました。

その後、宋の国に伝えられていたこの像に、当時入宋していた東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が出会い、大変感激します。
日本仏教のためにと何とか許可をもらい、宋の仏師に栴檀の木で模刻してもらって日本へ持ち帰り、清涼寺の本尊としました。
こういった理由からインド・中国・日本と三国伝来の仏像と呼ばれているというわけです。

清涼寺
【清涼寺】

さて、そんな釈迦如来像のおかげで大きな財を成した財閥があります。
時は江戸時代初期、清涼寺の裏に乞食同然の政友という山師が住んでおり、彼はいつもお釈迦様を深く信心していました。

ある時、お釈迦様が西南の方角を指し示され、これを自分に対するお告げであると信じた政友は、西南へ旅立ちます。
難波から瀬戸内海を西へ・・・辿り着いた所が今の別子銅山です。
そこでおびただしい量の銅が産出され、政友から二代目の泉屋吉左衛門の時、事業は大成功します。

三代目からは、名の政友を改め、「住友」と名乗るようになりました。